昭和50年02月25日 朝の御理解



 御理解 第2節
 「先の世までも持って行かれ、子孫までも残るものは神徳ぢゃ、神徳は信心すれば誰でも受ける事が出来る、みてると言う事がない。」

 先の世までも持って行かれ、子孫にも残ると折角持って行けるものであり、残して置けれる物であれば、少しでも多く持って行きたいまた残して置きたい。百よりも千千より万と言う様にです。そこん所をみてる事がないと仰っしゃっておられます。みてると言う限りがないと言う是で良いと言う事ではない、もう限りなく頂けるもの。先の世まで持って行かれ、子孫までも残る。
 そこで私は思うんですけれども、それはどう言う事かと言うと百斤の物が持てる為には、矢張り百斤の物が持てるだけの力を頂かねばいけない。千斤のものを頂きたいならば、千斤を持てれる力を持たねばならない。是はもう限りがない事である。分かり切った話なのだけれでも、矢張りそうである。そんならばそう言う例えば、願いを限りなく持たせて頂くその姿勢と言うか、それはどう言う様な信心をさせて頂いたら良いかと言う事です。楽になりたい楽になりたいと言った様な事ではいけませんね。
 それと言うても、苦しい事のみ多かりきでもいけませんよね。そこで私共の願いとさせて頂かねばいけない事はですね、印度にタゴールと言う哲学者がおりました。その人の詩の中に「我が重荷を軽くせよと我は祈らず、我をして重荷を担う事を得るものたらしめよ、と言うのが我が祈りなり」とあります。もう一辺読んで見ましょう。「わが荷を軽くせよと我は祈らずに、我をして重荷を担う事を得るものたらしめよ、と言うのが我が祈りなり」ね。もう此の千斤の物を持っとるなら。
 もう重うしてこたえんどうぞちっと軽くして下さいと言った様なう祈りは持たないと言う。それが平気で持てれる力を与えよと言うのです。私はそれだと思うんですね。限りなく頂いて行けれると言う事は、今銘々が踏んまえておる例えば難儀と言う物があると致しましょうか、難儀の様相と言うのは様々です。金がなくて困っている人もありゃ、不健康で難儀している人もある。人間関係で悩んでおる人もある。様々な悩み難儀と言う物をお願いに、例えば皆さん見えられます。
 本当にあなたにしては大変きつい事だろうと思います。もうそれこそ死ぬ程に辛い血の涙が出ると言う程しの事なんですから、ね。その人に取っては確かに血の涙の出る程しの思いであるかも知れません。もう本当にきつうて堪らんかも知れんけれども、私が取次かせて頂いて、私が思うのとその位の事でとこう思うのです。私ならその位な事は、全然重いとも思わないし、血の涙が出るごとではなしに、もし私ならば、有難涙がこぼれるごたる事を、皆が血の涙が出る程にとこう言うのです。
 もう先生駄目もう持てません、もう堪りませんと言っておる事をです、成る程その人は百斤しか持てないのに百十斤も例えば持っとるから、もう堪らんと言うのです。なら、私が千斤も万斤も持てれる力を持っているのですから、そんな事なんか全然問題じゃない。それでなら私がそれをこう持って、こう手伝って上げる事も出来る。どんな難儀な問題を持って来てもです。もう是で重荷が降りた心で御座いますとか、何か付いた物が落ちた様にスッキリ、心が楽になりましたと言うのがそれなんです。
 どうぞ皆さんあのー楽になります様に、もう兎に角きつうして堪らんと言う様に、少しでも楽になる様にそんなケチな、私は考え方では、とてもとても先の世まで持って行ける様なお徳も、勿論受けられないでしょう。お徳を受けると言う事は神様の言うなら、御信用を受けると言う事。この氏子にはどう言う物を持たせても、それを平気で持っただけではない有難く持つ、そこに神様の心が動く。所が殆どの人大概の人がね、その難儀から逃れたい逃れたいと言うて、神様にお願いを致します。
 是はおかげは受けてましても、只おかげを受けたと言う事だけであってです、所謂神様有難う御座いましたと言う事だけであってですね、神様が喜んで下さる様な、おかげにはなりません。人間は只、楽になると言うだけであります。昨日は大和さん所の、毎年そうですねもう二年も続いとるでしょうか、宅祭りは毎年二月二十四日に御座います。今度は先達ってから新築がなされておりました。
 その新築の報告のお祭りと言うか、感謝のお祭りと言うか新築報告のお祭り、例年の謝恩祭に併せて新築報告のお祭りがそれこそもう本当に大変な賑やかな、そして厳粛なお祭りが出来ました。もうそれこそ御参拝も多かった。もうそれこそぎっしり随分な人が居られましたでしょう。年々歳々こうやって大和さん所でお祭りが仕えられると言うと、年々歳々こうやって御参拝も多くなって行く。
 私もお取次さして頂いとりますけれども、あんなに立派に出来ておるとは思わなかった。見事なお家が出来とります。それこそ神様の所謂部屋が、もうわざわざその為に設えられております。それこそ本当に神様もどんなにか、お喜びだろうかとまあ思われます。あちらに参りましてから、すぐ神様にその事のお礼を申さして頂きいとりましたら、示現活動と言う事を頂きました。
 部屋の中でも一番良い部屋をそのまま神様のお部屋に、中央に御神殿が設けられて、そしてそれこそ木の香も新しい八足お三宝が並べられて、それこそ見事な奉斉が出来ました。例えば誰かまあお客さんがあると致しましょうか、もう見るなと言われても、拝むなと言われても見なきゃならん、やっぱ拝まにゃならん様に出来とるです。よう神様なんか床の間の隅の方にお祭りして、何かこう恥ずかしい物でも置いとる様にしてから、拝んどる様な人もある位です。
 何様ば信心しよんなさるなと言われたっちゃ、金光様と言いきらん人すらあるです。何処え行きよんなさるですか、はあちょいとそこまで。本当に教会にお参りさせて頂いとります、金光様の信心をさせて頂いとりますと、もう本当に堂々と胸を張って言えれる私は、信心にならなければ、もちろん例えば今日当たりの様な、お徳を頂くと言った様な信心は生まれて来ません。
 成程来る人ごとに成程違う、違うと思いよった人物の上にも、成程人物も立派であるが成程金光様の信心すりゃ、こんなにまでおかげが受けられるんだと言う事を、示めせれると言う事ですから是はもう全く示現活動です。あヽお宅は金光様の御信心しよんなさったとですか、こげな風でもう何十年さして頂いとります、そしてこう言うおかげ頂いとります。と言やぁそのままが言うなら金光様の執務ならば宣伝である。
 宣伝と言う事をまぁ或る意味では示現と言う訳です。示し現すと言う事です。しかもそう言う示現と言う事になって参ります時に、神仏が不思議な力、不思議な働きを現すと言われる位ですから、愈々大和さんのお宅の上にも、神様が不思議な働きを、是から愈々現して続けられるであろうと、こう思います。と言うてなら信心をさして頂いておるからね、お天気の日ばかりが続くかと言うと、決してそうばかりではない雨もあれば嵐もある。ね。普通で言うなら難儀と言う事もあるけれども。
 もうそこには難儀と言うものはない、あるものは神愛だけだと言う様な確信。ね。先日からの高芝さん所ぢゃないけれども、例えば話を聞いただけで身が、がたがた震う様な事が例えば起こったと致しましてもです、夜も眠られないと言う様にありましてもです、親戚中が集まってどうするかと評議しなければならない様な事がありましてもです、私から見ると一っつも問題ではない事なんです。
 いやむしろお礼を申し上げねばならない事なんです、二日間の間に本当に一家中親戚中の者がです、もう是によって愈々神様の働き、神様のおかげが解った。是からは愈々親先生の言われる通りに、生死に係る様な事があっても、親先生任せになる心が出来たと、子供達も娘婿達も言う位です。それが起きた時点ではそげな話が起きただけでも、身がガタガタ震うごたる事です。
 実際は言うたら、成程その事を思うたら、夜も眠られんだろうと思う様うな事なんです。けれどもそう言う事であればある程にです、神様を頂く神様を確信させて頂けれる働きと言う物が生まれて来る。それがもう見事なおかげになって現れておる。二十三日の朝の事で御座いましたから、夜が月次祭ですから今夜は皆んな一家中、親戚中揃うて、今晩の月次祭にはお礼参拝させて頂ける様なおかげを頂かにゃなと、私は言うておったが、その通りにそれこそ親戚中一家中で。
 月次祭にお礼参拝させて頂けれる程しの見事なおかげの展開になって来た。信心しよるとにどうしてこげな事が起こって来ただろか、そりゃ又どうするかと言うて青ざめしとったら、本当にどう言う事になったか解らない様な性質の問題でありましたけれどもですね、親先生があれやら是やらと人に頼んだりね、何かとまあ人を頼ると言う事はするなと、今日でも銘々ちゃんと自分の仕事をちゃんとしよりゃよかと。
 あヽもせんなんだろうこうも手を打たにゃいけんだろうと、そう思うんですけれどもそれは何処迄も人間心、それを持てない人それは良い事であって、それは千斤万斤の例えば悩み難儀であってもです、なら私ならそれを平気で持てる事を、平気にお取次さして頂くだけの事ね半信半疑であった親戚の人達もです、此の事から言うてもです愈々親先生任せになっときゃ良いと思われる様に、神様を信ずる力と言う物が一段と出来て来た。言うならば今までは、千斤しか持てなかったのがその事件を通してです。
 二千斤のものが平気で持てれる様になったと言う事です。皆さんどうぞ一つねそれにはや張り勇気が要ります、元気な心が要ります、生々とした心で信心を進めて行かねばいけません。そして自分の持っておる難儀と思うておる物がです、平気で楽にいや有難く持てれる力をこそ、どうぞ与えて下さいと言う信心にならねばいけません。そう言う生き方を持ってするから、限りなく力が受けられる。限りなく受けるその力こそあの世にも持って行けるのであり、又は子孫にも残しておけるのであります。
 まあ斤数で言うのでなく、お金の事にしても良いです、千円持てれる力一万円持てれる力ね、何億の金でも持てれる力と言う物を頂いて、そしてそれだけのものを、あの世へ持って行けれるだけではなくて、それを子孫にも残しておけれると言うのです。ね。昨日宮崎の大淀と言う所から手紙が来ておる。甲斐さんと言う方からまだ私は会った事がない。おかげの泉を毎月愛読しておるお家庭らしい。それから先日からあのー和賀心時代を創ると言う御本を、一家中で読んでおられるらしい。
 そしてこの手紙を書かなければおられない程しの衝動を感じて、親子三人の方が銘々手紙を書いて、お礼の手紙が来ておる。今六年生になる女の子小学校六年生、四年生になる娘さんそれとお母さん、先日も朝食の時にあの和賀心時代を借りて来て、私が読ませて頂いとりましたのを一寸読み出しました。もう御飯の準備が出来たよと言うても仲々立って来ん。そしてその御本を読みながらそれこそ読み耽って、御飯と言っても立ち上がらない様にそれこそむさぼる様に、和賀心時代の本を読ませて頂いとります。
 主人も申しとります。福岡の方へ親戚がおありになるそうですから、是非一遍そちらの方へ行ってから、合楽へ寄らせて頂きたい。一家中でお礼参拝のおかげが頂きたいと申しておりますと言うのです。その中に子供達が書いとります、長々と手紙が来とります。まだ見ぬ親先生と言うものに、どう言う方だろうかと思っているらしいのです。それでまあー学課の勉強の事でも、大変自分は算数が苦手で国語がまあ得手だとか、もう一人の妹は音楽が大変好きでピアノの練習をしている。
 そして自分には非常に好き嫌いがある、だから親先生のあのおかげの泉を読ませて頂いたら、好き嫌いがあると言う事は、自分の世界を狭うする様な物だと言う事が判らせて頂きました。子供でも解るんですやっぱりね。それで近頃からね、食べ物の兎に角野菜食だけしか食べきらなかったのが、肉やら魚やらもそれこそ精進、精進精進しながら頂いとりますと言う、所謂精進しながら稽古させて頂いとりますと言うのです。
 だからね精進をしなくて、言わば今日のお徳を頂ける言った様な信心が生れて来る様なはずはありませよ。只参りよりゃお徳を頂くと言う事ではない、精進をしなければならない。どう言う精進をするかと言うと、此のなら娘さんの言っている事ぢゃないけれども自分の周辺から、食べ物だけでも嫌いな物のない、何でも有難く頂けれる稽古を精進、精進、精進しておると言うのである。
 是が例えばなら人間関係になっても良い、もうあの人はフルフル好かん、顔を見るとも嫌と、むしろそう言う様な人を好きになる所から、本当のおかげが頂けれるんだと、言った様な事を何時も申します様に、あの人も仏様の様な人、この人は観音様の様な人と、自分の周辺に良い人ばかりが多くなって行く様なおかげを頂く時に、始めてあなたは極楽へと言う事になるであり、どう言う人とでも有難くお付き合いが出来る時に、それだけおかげの世界と言う物は、拡がって行くのです。
 まあ具体的に言うと、そう言う精進を言わばさせて頂きながらです、私は力を受けて行くもんだと思うです。自分が担うている荷物が重たい、楽にして下さい。楽にして下さいじゃなくて、その荷物が平気で楽に有難く担がれる私、にして下さいと言う様な生き方を身に付けて行くと言う事が信心であり、そう言う信心から言うならば信心をすれば誰でもお徳が受けられると仰っとられるのです。
 只楽になりたい、楽になりたいと言う信心な、それこそ五十年百年続けて信心した所で、お徳が受けられる筈は絶対にありません力は付きません。百斤しか持てなかったのが千斤持てる様になった、万斤持てる様になったそう言う様に言うならば、みてる事がない程しのおかげと言うのは、そう言う限りない信心の力と言う物を、限りなく頂いて行くと言う事なんです。それをあの世にも持って行け、この世にも残しておけれると言うのであります。只お願いをしておかげを頂きました。
 まあ昨日私は大和さん所にやらせて頂いて、あヽ信心ちゃ限りがないなと、思わせて頂いたんですけれどもね。本当に神様こう言う素晴らしい、もう本当に夢にも思わなかった様な、立派な家を頂かして貰うて有難う御座いますと言うて、それに本当に心から感謝をすると言う、所がそう言う信心は、実を言うたら駄目なんです。それは神様を使うとる信心です。今日は商売大繁盛のおかげを頂きました、今日は幾らの売上でした有難う御座いましたと言うて、お礼を言う様な信心では。
 神様を言うならば番頭さんに使うとる様なもんでしょうが。ね。所が今日は商売が大繁盛のおかげを頂いた、神様お目出とう御座いましたと言うそれが、神様を中心にした生き方なんです。仲々出来ません。それスッキリ出来ると言う事は仲々難しいです。例えば大和さんのお宅こんな素晴らしい家を頂いて有難い、もう神様から頂いた事になっとる神様が。それでは従の立場にしかならんです。
 どこまでも神様が主の立場、私共が従の立場にならせて頂く時にです、神様のお住まいになるお家が、この様に綺麗になった、神様お目出とう御座いますと言う事になって来るのです。そう言う信心が段々身に付いて来る頃から、私は本当の意味においての、御神徳は愈々付いて来ると思います、力が付いて来ると思うんですね。それは又大変言わば難しい事です。皆さんの場合はですね、まあお願いしておかげを頂かんならん、そしておかげを頂いて有難う御座いましたと言うまあお礼の信心がまぁ出来る。
 そこからだんだんそう言う、言うならば、自力とか他力とかと言う様な信心を、合楽では最近、他力と言う事を説かれます、もう本当に他力の信心と言う事は、ただいま申します様な事です。立派なお家が出来た、本当に神様有難う御座いますと言う信心は、何処迄も自力の信心ですまだ、神様お目出とう御座いますと言えれる信心になった時に、初めて他力と言えれるのです。そう言う信心を段々、過程においてで御座いますけど、身に付けて行かねばならない。
 それこそインドのダゴールではないですけれども、荷を軽うしてくれとは祈らない、その荷をです楽に持てれる力を与えてくれと祈るとこう言うのです。んなら、そう言う事なら何時もきつい思いばぁっかりしとらんならんかと言うと、決してそうぢゃないです。もうそれこそこんな楽な事はない、それを例えば百斤の物でもへとへとしてる所え、こちらが百五十斤持てる力を頂いてごらんなさい、百四十斤位の所迄持つ位の事は平気で持てます。その一つの例えば問題なら問題に対してです。
 それこそ血の涙が出る様な思いをする様な問題でありましても、力が出来ると、その血の涙の出る様なのが血の涙所ではない、有難涙が出る様な有難うなって来るのです。そう言う信心を愈々身に付けて行こうと言う信心、そう言う信心にそう言う信心をすれば誰でも御神徳が受けられると言うのであります。だから御神徳の受けられる信心を、一つ目指さなければいけませんですね。
   どうぞ。